霧島 玄斎(きりしま げんさい)は、江戸時代中期、本所深川の外れに現れたとされる伝説的な町医者である。昼の診療を一切拒否し、夜間のみ戸を開けたことから、近隣住民からは「夜医者」の異名で呼ばれた。
概要
玄斎は身分や貧富の差を問わず患者を受け入れたが、その診療代は極めて特異であった。金銭を薬代として受け取ることもあったが、患者が最も大切にしている「無形のもの」――夢、記憶、寿命、あるいは秘めていた嘘――を代価として求めたという。彼に診られた者は必ず命を取り留める一方、代価として差し出したものを二度と取り戻すことはできなかったと伝えられている。
生涯と活動
生国は薩摩(現在の鹿児島県)と伝えられているが、公的な武鑑や記録にはその名は見当たらない。深川の外れ、湿気と貧窮が渦巻く土地に看板も提灯も出さぬ診療所を構えていた。玄斎は「名は、生き延びた後に要るもんだ」と語り、患者の名すら聞かずに脈を取った。診療の最後には必ず「払えるか。あんたは、生きる代金を払えるか」と問い、患者の覚悟を量ったという。
診療哲学
玄斎は自らを医者ではなく、「人が自分の人生を引き受ける覚悟を量る秤(はかり)」であると称した。診療録(カルテ)を一切残さなかった理由については、次のように述べている。
文字にすれば命が軽くなる。命は出来事じゃない。ただの、続いてしまった時間だ。
伝承と逸話
- 夢を失った女: 肺病を患った貧しい女に対し、玄斎は「夢」を代価に治療を行った。女は全快したが、以後、一度も夢を見ることができなくなった。
- 寿命を差し出した商人: 重病の豪商が「寿命」を差し出した際、玄斎は初めて微笑んで治療を引き受けた。商人はその後、人より早く老いたが、後悔の念を見せることはなかった。
- 嘘を置いた浪人: 切腹を覚悟した浪人に対し、玄斎は「誰にも言えなかった嘘」を置いていくよう命じた。浪人が吐露した「本当は死ぬのが怖い」という真実を受け取ったことで、浪人はその後、町人として生きながらえた。
消息
享保年間のある夜、診療所は忽然と姿を消した。火事の痕跡も遺体もなく、ただ床に一言、以下の書き付けだけが残されていた。
延ばした命は、その者のものではない。選び取った命だけが、その者の人生だ。
以後、霧島玄斎の名が史書に現れることはなかった。しかし、現代においても、人が己の生を真に問い直そうとする夜、その診療所の戸はどこかで開かれているのかもしれない。
外部リンク
-
▶
YouTube: 霧島玄斎(公式YouTubeチャンネル「歴史に、埋もれた偉人列伝」)
-
n
note: 【偉人列伝】霧島玄斎は、なぜ“夜しか診なかった”のか週刊立川こしらインタビュー
